暑さもピークの8月半ば、千葉館山に志村和晃さんを訪ねました。
志村さんは、7月に益子から仕事場を移したばかり。片付いてないです、汚いです、と、尻込みする志村さんを「個展をやってもらう方のところへは、伺うことになってるんです」と押し切っての訪問です。
バスが便利と教えてもらい、東京駅から「なのはな号」という高速バスで1時間半ほど。アクアラインを渡る快適ドライブで「とみうら枇杷倶楽部」という道の駅に着きました。迎えに来てくれた志村さんのクルマに乗り換え5分ほどで、ご実家の一角に作られた窯場に到着。
家のぐるりはゆたかな緑。ちょっと行けばすぐに海。虫取り網や釣り竿を持って走り回る、少年の姿が目に浮かぶ、夏休みの原風景がそこにありました。
益子より明るい気がするんです。と、志村さん。
たしかに。
ご実家に仕事場を作り、いまは奥さんやお子さんの住む船橋と行ったり来たりの生活。何かと不便はありそうですが、この家にふたりで住まわれるお父さまとお婆さまには嬉しい決断だったと思います。
「汚いところですが」と言われていたお仕事場は、小さいながらきれいに整頓されてちっとも汚くなくなんかなく、すでに出来上がっていた作品を見せていただきながら軽く打ち合わせ。
しっとりと日本の古陶磁のようであり、東南アジアの香りもする染付けや、温かく盛り映えのする淡緑釉。志村さんならではのうつわが並び、どこかホッとします。
もうひとつリクエストしていた青は、以前の釉が不安定とのことで、新しいものに挑戦中。
せっかくの個展だから一点ものの大きい鉢やお皿は欲しいよね、マグカップは無理になくてもいいけど、いろいろ使えるそば猪口があるといいね、などなど思いつくまま、意見交換。考えを擦り合わせます。
志村さんは高校のあと、デザイン専門学校に進み、卒業後、東京で陶芸とはまったく関係のない仕事に就きました。そして5年ほど経って、自分の本当にやりたいことを考えたとき、思い浮かんだのはデザイン学校時代、授業で学んだ陶芸でした。
それから改めて、京都の伝統工芸専門学校に入学。そこは京都で働くやきものの職人を育てるところで、2年間、ろくろと絵付けの技術を叩き込まれました。
去年、益子で志村さんの作品を初めて見たとき感じた完成度の高さは、そこで身に付けた基礎があったからだと納得します。
そして卒業後、石川の正木春蔵さんに弟子入り。
染め付け、赤絵の世界では第一人者。熱烈なファンも多い正木さんですが、そんなことは露知らず、たまたま専門学校の友人が弟子入りすることになり、もう何名か取ると聞いて面接に行ったという志村さん。結局、事情があり、正木さんのもとにいたのは1年ほどでしたけど、受けた影響は大きく、温故知新、古き良きものに学ぶ中から自分の物作りを目指す姿勢はそのとき培われたものと言うから、志村さんの陶芸家人生にとって大きな出会いだったことは間違いありません。
それから、また違う産地、益子の製陶所で経験を積んだあと、2012年に独立。
わたしが志村さんと会ったのは、翌年の春の陶器市でした。
他の人とはちょっと違う、少しアンティークのようでありつつ、いまの暮らしにさりげなく馴染んでくれそうなうつわ。加飾しながら華美でなく、お料理をひきたててくれそうなうつわ。そして、いま持っているうつわたちとも、仲良くしてくれそうなうつわ。
心惹かれつつ、色もかたちもいろいろなうつわを作られている志村さんだから、何を頼んでいいか思い悩んで、いくつかお願いしたのが半年ぐらい経ってから。それから、もっといろいろなものを見てみたい。お客さまにも見ていただきたいとの思いで個展をお願いしたのでした。
光栄なことに、東京での初個展。そして、千葉での初窯ということで、気持ちも新たにがんばってくれている志村さん。意欲的な作品たちが並びそうです。
あと一週間ほどで迎える初日。
会期中、ぜひぜひ足をお運びくださいね。
初日、2日目は、志村さんも在店しています。
震災のとき、益子では多くの窯が潰れ、膨大な量のやきものが壊れました。
そのカケラをなんとか活かすことができないか、と立ち上げられたのが「旅するカケラ」プロジェクト。カケラをコラージュした国内だけでなく海外でも展示して、再生への思いを伝え、メッセージを書いてもらいました。そのひとつがこれ。志村さんの仕事場に飾ってありました。