窯変のなます皿。 |

久しぶりに深田容子さんから、黄粉引きのなます皿が届きました。
待ちに待った納品だから、勇んで開けると淡くやさしい色味にポツポツと斑紋のあるなます皿が現れました。以前はもっと濃いめの色で斑紋はあまりなかったから、う〜〜んと考え、深田さんに「ちょっと通好みで難しいかな」とメールを出すと「そうですか〜、窯変、ダメですか」と、がっかりした返事が来ました。
窯変は、火や釉が窯の中で織り成す自然な変化。作意では生まれ得ないその景色の面白さが焼きものの醍醐味であり、味わいであり、おそらく窯から出したとき、深田さんは喜んだであろうものなのですが。手に取って、一期一会の出会いをたのしむ個展などと違って、以前、ご覧になったあれが欲しいと思っておられるネットのお客さまには「イメージが違うのでは」と懸念したわたしでした。
お店に足を運んで出会ったうつわを吟味して選ばざるを得なかった以前と違って、いまはネットが普及して遠くの方にも広くお届けできるようになりました。
そういう方には、手に取ってご覧いただけないから、できれば以前と変わらぬイメージのものをお渡ししなければと思います。
でも、本来、作家もののうつわは生きもの。人の手で作られるものだから、そのときどきの手の感覚でも大きさもフォルムも変わるし、またよりよいものをと高みを目指して釉やスタイルも変化します。
この秋、続いた個展の中でたくさんの作り手と話していると、異口同音に「以前と同じものを作る」ことのやり難さ、違和感が聞かれました。
揃えて作ることに神経を使うより、そのときの勢いや気持ちを大切にしたいと言う深田さん、合わせて作ろうと意識するとかたちが固くなるんです、と福永さん。同じように「とんぼ」(サイズを合わせるための計る道具)を使うと「かたちが窮屈になる気がして」と久保田さん。そんな言葉に大きくうなづき、作り手にはいつものびやかに創作に取り組んで欲しいと願いつつ、実際にはやはり頼んだものが違う表情で上がってくるととまどいうろたえ、毅然として良しとできない自分を小さくはがゆく思います。このジレンマは、自分なりの視点をしっかり持てない限り、いつまでも続いてしまうのかも知れません。
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