広川絵麻ちゃんのこと。 |
広川絵麻ちゃんを思うとき、この春、高知の仕事場を訪ねたときの別れ際の姿が浮かびます。
ホテルの前に止めたクルマから小さな小春ちゃんと手を振ってくれた、そのときの少し心もとない笑顔が目に浮かび、ちょっと心がぎゅっとなります。
桜が満開というのに肌寒い高知に降り立ったのは4月初め。
初めての高知だから、空港で赤ちゃんを抱いた絵麻ちゃんに会っただけで、わたしはすっかり安心してしまったのだけど、それからクルマで家に向かう間、後ろのチャイルドシートで火がついたように泣く、まだ生まれて半年余りの康太くん。公園で授乳休憩したり、お姉ちゃんがいたら泣き止むかと保育園に迎えに行ったりしても一向に功を奏さず、おろおろとハンドルを握る絵麻ちゃんと、そんな道中も妙にたのしいわたしを乗せて、おそらく1時間ぐらいの行程を2時間ほどかけクルマは仕事場に着きました。
絵麻ちゃんの自宅兼仕事場は山桜咲く里を見渡す山の上。その景色に感動し、しばし見とれてしまうほどです。
窯場と釉掛などする小屋は別れ、ろくろ場は居間に隣接する縁側のような入り口のような場所にありました。なるほどここなら、幼いこどもたちの様子を見ながら仕事ができるんだな。
絵麻ちゃんの窯は、そのおおらかともダイナミックとも言える作品からは想像できない小さなガス窯。
「よく蹴ろくろで薪窯ですかと聞かれるけれど、電動ろくろでガス窯です」。
所狭しと在庫の置いてある部屋で個展の打ち合わせをしました。
その誰とも似ていない、何かに例えようもない存在感に惹かれ、もう何年も前からオファーしていた個展。けれど、まだ小さな小春ちゃんがいて、躊躇するうちに弟ができ、どれだけできるかわからないと迷いに迷う絵麻ちゃんに、できるだけでいいからとこの6月の会期を決めたのでした。
仕事場を訪ねて話を聞くと、個展だけでなく、子育てをしながらこれからも焼きものを続けられるのかと、思い悩む絵麻ちゃんがいました。
絵麻ちゃんが陶芸家になったのは「こどもの頃から人と話すのが、ひどく苦手だったから」。
お父さんとお母さんはともにデザイン関係の人だけど、デザインにはコミュニケーションが必要だから無理。
じゃあ、何ができるかと考えたとき「トラックの運転手か、職人」と、絵麻ちゃんは思ったそうです。
そして、「職人」を選んだ絵麻ちゃんは「手に職をつけるため」沖縄芸大へ。
けれど、やわらかいものがいいと専攻した陶芸には、土器を河原で焼くなどの授業があって「技術の習得が目的だったのに、無駄なものに目覚めた」と絵麻ちゃんは言います。
卒業後、多治見の意匠研究所に入った絵麻ちゃんでしたが、沖縄でよりプリミティブなものづくりに目覚めた彼女。
コンセプトありきの陶芸がしっくり来ず「ただ、作り続けるにはどうしたらいいのだろう」と模索し始めます。
意匠研を出たのち、朝早いパン屋さんでバイトしながら、電気、ガス、薪の3箇所の窯の間借りして、独自に展示を開くなど活動をしているときに、大学時代に知り合った小野哲平さんと再会します。
それから5年間、鉄平さんのもとで粘土づくりや薪割り、窯焚きなどを手伝いながら、焼きものを学ぶとともに、焼きものを作って生きるということがどういうことか、また、常滑などの産地ではそうして生きている人がたくさんいることを知った絵麻ちゃん。
そして2010年、哲平さん宅からほど近いいまの場所に自分の窯を構えます。
できた作品を背負っては東京のお店に売り込み。
わたしが彼女のうつわに出会ったのは、原宿のzakkaさんでのことでした。
初めて絵麻ちゃんと会ったのは7~8年前、酒器展を見に来てくれたときのこと。オープン前から店の前で自分の荷物に座って待っていて、独り言ともつかない高知弁でしゃべりながら店内を見て歩き、ぐいのみをひとつ選んで買ってくれた絵麻ちゃんを、なんだか変わった子だなと少し呆気にとられて見送ったものですが、やがて、年に一度ずつ、企画展に参加してもらうようになり、今回、待望の個展を開けることになりました。
コンセプトとか、スタイルとかではなく、ただろくろに向かう手の感触と、ひたすらお料理が美味しく見えるようにと願う心。
絵麻ちゃんのうつわは作るというより、絵麻ちゃんの思いから生まれて来るものという気がします。
絵麻ちゃんのうつわを手にとると、そんなひたむきさが伝わって、気持ちが温もったり、ちょっと切なくなったりもします。
いまでも「うつわがお客さんと喋ってくれればいいのに」と言うほど、おしゃべりが苦手な絵麻ちゃんですが、頑張って子連れで初日、来てくれることになりました。
いい初日、そして、いい個展にしたいと思います。